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村に行く前に、勉強が必要か?

村で働いている協力隊員から、「自分は、農村開発の勉強をして来なかった。村で働けと言われても何をしていいかわからない」というような声を聞くことがあります。

確かに、タイの地域開発・コミュニティ開発に関わる殆どの政府職員はアカデミックなバックグランドを持っています。学士はおろか修士を持っている人も少なくありません。

日本人でも国際機関やJICAやNGOで働いている人は、よくアカデミックな勉強をしていて、とっても偉そうで、開発の話をしても専門用語ばかりで理解できませんよね。
専門用語云々というより、そもそも、たとえば「ジェンダのメインストリーム化(開発でのあらゆる局面での女性への配慮)」だとか「農民のグループ化」だとか「PRAによるニーズ調査」だとか、手法の議論がされて、ついていけません。
(もっと素人に判りやすく話してほしい。村に行っても専門用語で話すつもりでしょうか?)

「なぜ、ジェンダのメインストリーム化をしなければならないのですか?」と素朴な質問をすれば、
「なに当たり前の事を聞いているの? 素人は黙っていなさい」
とは言わないのでしょうが、そう言われそうで怖いのです。

でも、ちょっと待ってください。
村落開発・農村開発・コミュニティ開発を村で実践するのに、大学や大学院でアカデミックな勉強をしておく必要があるのでしょうか? 
自分は、次の2点の理由で「必要はない」と考えます。


1.村での開発アプローチ(=住民参加型アプローチ)では、住民が自分たちで考え話し合い、実施するプロセスが大切です。誰かが、指導をして実施するわけではありませんよね。

住民自身が、その場所で生まれ育ち、親や親戚・近所の人たちと過ごし、働き、問題に直視している、自分たちの生活を一番よく知っている専門家なのです。

その、住民と同じ視線で働き、一緒にプロセスを大切にしながら開発をしていくには、「住民が専門知識がないのと同じように」協力隊員にも専門知識はいらないのです。


2.例えば農業技術を向上する為に、住民が外部のリソースを活用することなどは当然あります。しかしその場合も基本は、「まず住民ありき」でありきなのです。「まず農業技術ありき」でもなければ「まず保健衛生技術ありき」でもないのと同じように、「まずコミュニティ開発技術ありき」でもないのです。

 このことに異論を唱える協力隊員は少ないと思います。
では、なぜ協力隊員だけが、「まず勉強ありき」なのですか?
まず、協力隊員もまず「一人の村に居る人間としての協力隊員ありき」ではないでしょうか? 「村にいる専門家としての協力隊員」ではなく、「一人のnインゲンとしての協力隊員」、それが基本ではないでしょうか?
アカデミックな勉強はあとからで十分です。
(厳密にいえば、村での生活そのものが勉強ですが、ここでは「大学での勉強」を「勉強」と呼んでいます)


極端なことを言っているのではありません。
たとえば、あなたが医者志望だとすると、「勉強の前にまず患者を診なさい」など言いません。あなたが、建築家志望だとすると「勉強の前にまず建物を建てて見なさい」とは言いません。 でも、誰もが、「村の生活」≒「ひとの生活」の経験をしてきているのです。

(ただ、医者だとしても「患者が先生(=専門知識よりも患者との込むウニケーションを優先)」と考える人を尊敬できますが)

あなたのいままでの人生の中で、生きて食べて、喜び悲しみ苦しみ、家族・コミュニティ・学校で生活し、働き、遊んできたのでしょう? ということは、あなたは人として生きる経験は20数年あるでしょう。その経験をフルに生かして、村の住民とつきあってみる、それで十分だと思います。もちろん、日本の社会・経済状況と村の状況とは違うでしょう。でも、『人である限り基本は一緒』なのです。


もちろん、アカデミックな勉強を否定していません。
協力隊員活動をして、その結果もっと勉強したいと考え勉強をしはじめた人は多くいます。が、ここで言いたいのは、
「大学(アカデミックな勉強)ありきではない」
「アカデミックな知識がなくても村で協力活動は十分できる」

ということです。


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