村の開発においてリーダー育成は有効か?

国際協力の現場で、「リーダー育成」なる活動が多く行われています。
青年リーダー育成、コミュニティリーダー育成、農民リーダー育成、女性リーダー育成、障害者リーダー育成などなどです。そして、自分の知る限り「リーダー育成」を行うために具体的には「リーダー育成のための研修」を行います。


それらの研修を十分熟知しているわけではないので、ここで自分はそれが良いとか悪いとか書くつもりはありません。

少なくとも昔は、支援する側(村落開発ワーカー育成、村落開発普及員育成、農業普及員育成、ソシャルワーカー育成などなど)を中心にすえたプロジェクトが多かったように思えますが、そういう支援する側へのフォーカスよりも、支援される側(=住民)のリーダを育成することは、自分的には大いに歓迎するところです。
また、そういう支援される側が、自ら活動を実施するのを目的として働きかける活動を「エンパワーメント活動」と呼ぶと自分は理解しています。

ところが、自分の理想を踏まえると、そのような「住民リーダー育成」というのは、(必要であるけれど)、それがエンパワーメントと言われるとちょっと違うのではないかと思っているのです。

というのは、住民リーダー育成というアプローチでは、やっぱり本当の弱者(=地域で一番貧困のグループ、一番重度の障害者、一番差別されている人)のエンパワーメントがなされるのかとの疑問なのです。
もちろん、住民リーダー育成に関しては、「最も虐げられている人・グループに配慮する」ことを考慮するのだと思います。が、それには疑問がある。というより、本来の(理想の)エンパワーメントアプローチではないのではないかとの疑問です。

一例です。

村で麻薬に溺れた嫌われ者の青年がいます。その青年がエンパワーメントされた(≒生活の向上への意欲)がでてきたとします。「村の人から相手にもされなかった人が変わった」ことが、村の人の意識改革につながらないでしょうか?

村のなかの差別地区の住民がいます。もちろん土地無しで、日雇いなどをしながら生活しています。そういう人がエンパワーメントされた(≒自分たちの生活を良くしようという意欲がでてきた)ことにより、村の中に改革の機運がでてきました。

村の中に、重度の障害者がいます。その重度の障害者がエンパワーメントされた(≒いきいきと自分たちの将来について語り始めた)ことにより、村の軽度の障害者が頑張り始めた。

そんなことが、エンパワーメントの原点ではないかと思っています。
村の障害者リーダー育成は、村の中でのエリート育成となりがちではないかとの危惧です。エンパワーメントのアプローチは、本当に虐げられる人に対して行うことが理想ではないかと思っているのです。

このあたり自分の中でまだ十分整理ができていませんが、またぼちぼち続きを書きたいと思います。

なお、リーダー育成アプローチを否定しているわけではないので、念のため。

リーダー育成アプローチは

確かにエリート(つまり開発ワーカーの言葉が理解できる人)の育成になりやすいと思います。それがいいか悪いかは別として、開発ワーカーは一生その地域にコミットしていかれないので、地元でリーダーを育てます(育成したと思ったら、海外に行っちゃうというケースはアフリカでは多々みられますが、、)。
さくらぎちょうさんの差別地区住民や障害者の例はモットモですが、そのエンパワーメントレベルが既存の権力構造を破壊するまでに及ばない時は受け入れられると思います。しかし、そのエンパワーメントレベルが既存の権力構造に脅威を与えるようになると(それが真のエンパワーメントだと思う)、既存の権力者達から復讐されるのです。
よって、本当の弱者を縁パワーするのであれば、そこら辺を留意しなければなりません。
よく女性のエンパワーメントプロジェクトで、女性が成功し始めると、男性のイジメが始まり、レイプなどの見せしめが始まったりするのです。
[ 2006/11/22 03:20 ] [ 編集 ]

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