開発と役人

某国際機関勤務の友人からの私信メールです。
個人を特定できないように、かなり手を入れてデフォルメしていますが。


やらなければならないことをやっていない役人、金をせびることしか考えていない役人に疲れてしまいます。
もちろん、そんな人ばかりではないと思うのですが、私が目にしてしまうのはそんな人たち。

しかも会議や研修もよく行われるのですが、会議・研修の必要性がどこにあるのか、成果は何なのか疑問になるものもばかり。
今度ここの役人相手に研修をやるのですが、こんなのやっても意味がないこと丸分かり。
でもヤル気のあるふりをして準備に励むのです。
研修でプロジェクト運営のやり方を学ぶのは大事だけど、基本的な姿勢に問題ある相手に研修をしてもどうしようもないでしょうと言いたいのですが、それができない。
本当にヤル気があったら、代替案を出すのが筋でしょうが、そんなことにエネルギーを割きたくない。 そんな心境の私です。


国際協力に携わった人は、多かれ少なかれこの脱力感を味わっているのではないでしょうか?


ちょっとずれますが、自分の経験を。

はじめて自分が海外に青年海外協力隊で派遣されたのは、タイの地方の専門学校でした。
当初JICAから説明を受けていたのは、「その学校でのコンピュータ教育体制を整備・教師への指導。」が求められていました。
「タイは技術レベルが高いので頑張らないとバカにされますよ。」などとも言われたりしました。


ところが、実際に行ってみると、そこでの教師達の学校での会話といえば「女の話」「博打の話」「ボクシングやサッカーの話」のみ。
「なにを大げさな」と思うかも知れませんが、
本当に大げさではなく、本当にそれ以外の話は全くないのです。
それが、当時の地方の専門学校の教師のレベルだったのです。

生徒の教育に興味のある教師はほとんど皆無。(厳密にいえば1人)

その証拠に、生徒が卒業してどこで何をしているか誰も知らないのです。生徒の教育に興味があるのなら、そんなことはないはずですよね。

一応の学歴はあるが、自分がサバイサバイ(楽をして生活)する手段として教師をしている。
そんな人ばっかりの職場。それが現実でした。

あまりのことに驚いて、バンコクのJICA事務所に現状を報告(といえば聞こえは良いが、実際は文句だったと思う)すると、「タイは技術レベルが高いのです。一定の水準に達している国でそんな無茶苦茶なことはないはずです。現場の教師へのコンピュータ教育は本省からも強く求められているのです。もっと、現実をしっかり把握してください」とのことでした。

JICAは、何故地方の現場の現状を否定するのだろう?
現実の現場で起きている事実を否定されることが、当時の自分にとって衝撃でした。

といいつつ、最終的には、やる気のない出来の悪い教師など期待せずに仕事をすることで、それなりの「見かけの」成果と評価を得られることになったのだと思います。

その後、某地方大学でサマーセミナーを行ったとき、大学の教員の「やる気」が自分のいた専門学校よりはるかに高く、結果としてとても仕事がやりやすかった経験。さらに、バンコクのタイ政府本局機関での勤務で、優秀な官僚と仕事をして、さらに仕事がやりやすかった経験。さらに、民間会社の社員としてタイの東大と言われるチュラロンコン大学に出張した際には、さらに仕事がやりやすかった経験、、、、「相手のレベルが高ければ高いほど仕事はやりやすい」ことを身をもって体験しました。

「高等教育機関では高度な技術が必要、地方大学や専門学校では(技術レベルの低い)協力隊でも対応可能」というのは、少なくとも海外協力においては、大きな間違いであると身を持って確信しました。

その後、村に関わりはじめ、大学や専門学校の教員ではなく、地方の住民に関わる役人と仕事をすることが増えて来ました。

しかし、結局、多かれ少なかれ役人も教師も同じでした。
「1に自分のこと、2に自分のこと、3に自分の仲間のこと」が大事で、住民を真剣に考えていない、やる気がないのです。

適当な仕事をしつつ、責任を追及されそうになると、「あくまで自分はサポーターであり、責任を持つのは住民自身」と逃げる役人達。
住民への研修会の開催が目的(業務の実績)であり、住民の真の生活の向上を目指しているわけではない態度。
結局、自分が青年海外協力隊員のときに地方の学校で味わったのと同質の脱力感でした。本局の高級役人は、当時のJICA事務所と同じで、現場を把握しておらず(何故か、タイ人官僚より日本人の方が現場を把握しているのです。嘘みたいだけど本当です。)結局、できのわるい役人をだましだまし仕事をするしかないのです。

そんな時に、出会ったのは「エンパワメント」アプローチでした。

役人を主に考えるのでなく、住民を主にとらえる。学生を主にとらえる。ダメな人を、最底辺の人を主にとらえるアプローチです。
そういったダメな人がやる気を持つことによってダメな役人や教師を変えていこうとするアプローチです。

そして、そのエンパワーメントアプローチが最も形として見えやすかったのは、「障害者」です。
村の障害者は文字通り村の中でも虐げられた人です。絶望感・あきらめの中で生活(生活ではなく、「なんとか生きながらえている」が正しいかも)しています。その障害者がエンパワー(やる気がでる)ことによって、多くの変化がでるのです。障害者であれば、ある意味で極端なだけに、目で見えて明らかになってくるのではないかと思います。

「障害者プロジェクトだから障害者のエンパワーを行う」

のではなく、

「住民全体の対象のプロジェクトだから、まず結果がはっきり見える障害者のエンパワーから始める」

というアプローチがいいのではないかというのが自分の現在の新年です。

少なくとも、やる気のないできの悪い役人は、最低限の関わりにして、「じゃまにならなければ良い」くらいの気でいた方がうまくいくのではないかと思います。

ちょっと、極端に書きましたが、、、、、


続きはまた書きたいと思います。



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