障害者支援は誰のため?(思い入れ編その2) の続きです。
しゃべるのが苦手な人っていますよね。子供のころに、そういう人に「言語障害か?」とからかったり、からかったりされた経験ってありませんか? 大人になると、そういうのは差別的なことで良くないと思って常識的な人はそんなことはしないと思います。
誤解を恐れずにいえば、自分はしゃべるのが苦手な人は言語障害の一種だと思います。
あなたが、外国に行けば、聞くのも話すのも、とても制限がありますよね。そういうあなたは、外国では障害者なのです。
雪国で育った人は雪や氷のうえを上手に歩きますが、自分はできません。自分は障害者だと思っています。
島では、泳げない人は障害者です。
何が言いたいかといえば、どのような人が障害者でどのような人が障害者でないかとかは、社会状況によって異なるということです。
極端な話、狩猟時代では、目の悪い人や走るのが遅い人は、社会の中で間違いなく障害者でしょう。狩りができません。
でも、現代社会では、メガネをかければよいし、足が速いかどうかは社会に必要な能力のごく一部です。
もう一つのポイントは、障害者か非障害者かは明確に区別できるわけではないということです。判りやすいのが、知的障害者で、どこまでが障害者でどこまでが違うのか、IQで点数化して区別化するって重要ですか?
すなわち、障害というのは人間の本質でなく社会の状況が障害者を生み出しているのです。 将来、自由にコントロールできる義肢装具ができたとすると、多くの下肢障害者が、自由に歩いたり走ったりできるとします。そうしたら、もう障害者とは言わないでしょう。メガネをかけて、普通生活できる人を障害者と呼ばないように。
逆に、自分の機能が劣っていても社会生活に全く問題がなければ、障害者と呼びません。
自分は、
「社会生活に何らかの障害がある人」を障害者と呼びます。そして、自分は非常に多くの障害があります。目が悪い、頭が悪い、顔がわるい、正確が悪い、走るのが遅い、息が臭い、etc
あなたも、自分ほどではないかもしれませんが、障害がいっぱいありませんか? 重度障害者ではないかもしれませんが。
自分の定義では、世の中の殆どの人が障害者です。
そして、それが社会生活における障害なのか非障害なのかは、社会によって異なるのです。
つまり、障害者支援といえば、個人個人の問題を社会的には問題としなくすることです。
つまり、殆どの人間は障害があるので、殆どの人が障害者支援の対象者なのです。
車椅子の人だけが対象者ではないのです。
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しばらく間が空いてしまいましたが、
障害者支援は誰のため?(思い入れ編その1) の続編です。
人間は生まれながら持つ能力に、人によって差がありますよね。
そりゃ、もちろんきれい事を言えば「誰だって努力によって可能性がある」なんて言いますが。
誤解を恐れずに言えば、明らかに人によって能力に差がありますよね。
音痴な子が努力して多少音楽ができるようになるのはあるのかも知れないが、音楽家になるなんてのはまずない。走るのがクラスでビリの子が頑張ってクラスで真ん中くらいにはなるのかも知れないが、オリンピックに出るなんてことはまずない。
さらにいえば、「人は外見ではない」と小学生のときに教わりましたが、「人に好かれる外見」と「人に嫌われがちな外見」というのも確かに存在します。努力によって多少改善する(鏡を見て表情を工夫するなど)のかもしれませんが、本質的には変わりません。
逆に自分の例でいえば、子供のころ、勉強の科目によっては、ろくすっぽ勉強をしていないのに他人より試験の成績がよかった。一生懸命勉強している友達よりも、ちゃらんぽらんな自分の方が、成績がよい。そんな矛盾を感じました。
でも、先生は、「頑張ったね」と自分を誉めるのです。
「自分は頑張っていません。友達の方が頑張りました。試験結果を見たって、頑張ったかどうかわかりません」よっぽど言いたかったのですが、心の中でしか言えませんでした。
逆に、自分は頑張っているつもりのことが、全然結果がでなくて悔しい思いをしたことが、その何倍もあるのです。
そんな、自分の才能だとか、外見だとか、その他の限界に小学生のときからちょっとづつ気がつきながら、中学、高校、社会人になってきたのではないでしょうか?
殆どの人は、どんどん挫折して、そして今の自分があるのではないですか? では、挫折したあなたはダメな人なのですか?
子供の時に、親や先生に言われました。「お前が頑張っても無理だったら『勉強をしろ』なんて言わない。やればできるのに『やらない』からしかるのだ」 心の中で思っていました。 「自分はできないんだ。やればれきるなんて、なんでそんなことわかるんだ?」って。
でも、一応は「よい子」だったので、逆らいませんでしたが。
何が言いたいのかといえば、
音楽ができるかどうかで、どうして人をはかるんですか? 音楽ができない子は努力が足りないのですか?
体育ができるかどうかで、どうして人をはかるんですか? 体育ができない子は努力が足りないのですか?
スタイルや顔の悪い子は、確実に損をするのではないですか? それは本人の努力が足りないのですか?
頑張って勉強をしても試験の点数の良くない子は、本人の努力が足りないのです?
自分は、そうは思いません。「努力した」それが大切なのであって、その「努力した」ことが評価される。そんな世の中が人に住みやすい世の中ではないかと思いませんか?
音楽ができなくても、体育ができなくても、スタイルが悪くても、勉強の点数が良くなくても、そんなことにより、人生の落伍者になる社会ではなく、「できないことが当たり前」「できないことを前提に皆カバーしあいながら生きていく」そんな人生が良いと思いませんか?
そのようなことを書くと、何を青臭いことを書いているんだ? と叱られそうです。
でも、そんな青臭いことが、現実にあり得るのではないかと思ったのが障害者との関わりなのです。
障害者は何らかの機能に障害があるから障害者と呼ばれます。歩く機能や見る機能や考える機能やetc
でも、その障害の程度はもちろん人によって異なります。でも、「障害の軽い人が偉くて、障害の重い人が偉くない。」そんなこと考える人はいませんよね。「ツエで歩ける人はすばらしく、車椅子の人は落伍者」「弱視の人は偉いが、全盲の人はダメな人」そんなことをいう人はいませんよね。障害の程度と人の価値は無関係だと障害者は教えてくれます。
では、「音楽の点数が90点の人は偉くて、音楽の点数が30点の人が偉くない」となぜ考えるのでしょうか?
「数学の点数が90点の人が偉くて、30点の人がダメな人」と、なぜ考えるのですか?
誤解を恐れずにいえば、人は誰もが障害者なのです。音楽の能力に障害があったり、数学の能力に障害があったり。外観に障害があったり。
もちろん、機能面からみたら、「障害者」は「社会生活をおくるのが著しく困難」な人が障害者といえなくないかも知れません。でも、それは医学的に1か0か切り分けたときの場合で、実際は、とっても困難からほんの少し困難までいろいろあるのです。そういう意味で、重大な機能障害は持っている人は少ないのかもしれませんが、みなさんの殆どは障害者です。そして、障害があるからといって、その障害をはずかしがる必要はないのです。
(機能の障害が重い)いわゆる障害者は、それを教えてくれるのです。
障害者支援を行うことは、いろいろな挫折を繰り返してきた99%の人を救うことでもあるのです。
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ちょっと古い話になりますが、門田博光って知っていますか? アキレス腱を切る怪我をし再起不能と言われながらも、40歳を越えてホームラン王になった野球選手です。アキレス腱を保護する特殊な靴を履いて満足に走ることもできないのに、ホームランをどんどん打つ姿は感動的でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E7%94%B0%E5%8D%9A%E5%85%89スキーのジャンプの原田雅彦選手が、リレハンメルオリンピックで大失敗してしまい金メダルを逃しました。その後自宅まで嫌がらせがあったそうです。相当つらかったのは想像に難くありません。長野オリンピックでも失敗を経て最後に獲得した金メダルは感激しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E9%9B%85%E5%BD%A6スポーツ選手が、怪我やスランプや、失敗やそういうことを乗り越えていくのを見るのは感動的です。
でも、特殊なスポーツ選手だけでなく、普通の人間にだって怪我や失敗をした人って魅力的に感じませんか?
自分は、そういう人をとても魅力的に感じるのです。
「何をやっても天才的!」そつない優等生っていますよね。でも、そういう人ってどこか「立派な人だとは思っても、、偉いなあと思っても、、、、少なくとも尊敬できる人ではない」って感じはしないですか?
もちろん、そういう人も影でとっても努力はしているのでしょう。いや、むしろ、「努力すれば何でもできるんだ。」と周りを勇気づけようとしているかもしれません。
でも、自分のような凡人(殆どの人は凡人だと思います)は「努力しても何でもできる訳ではない」ことを知っています。
「人生は挫折の連続」とまではいかないまでも、数多くの挫折を味わってきました。その挫折の多くが「努力が足りない」だけではなく、他の理由もあったことも知っています。
それなのに、「努力すればできるんだ。頑張ろう」と「努力すればできる人」に「努力してもできない人」が言われたら、とても違和感があり、かつ反発も感じるのです。
最初の話にもどります。門田選手や原田選手に猛烈な感動を覚えるのは、努力ではどうしようもならなかったこと「アキレス腱切断や失敗ジャンプ」を経験し、挫折したこと。そして、それを克服してきたためだと思うのです。門田選手が怪我もなくホームラン王になっていたとしても、原田選手が失敗もせずに軽々と金メダルをとっていたとしても。
世の中の殆どの人は、挫折、失敗を沢山、沢山積み重ねていると思います。失敗挫折を積み重ねた人は、挫折の痛み、失敗のつらさを知っています。それらを経験・糧として生きている先輩はとても魅力的です。挫折や失敗、そういうものが多ければ多いほど魅力的な人ではないかと思います。
高齢者はそういう年齢を重ねた分、挫折、失敗が多いのでしょう。「人生の先輩」と言いますが、私は「挫折・失敗の先輩」だから尊敬できるのだと思います。
障害者。障害があるということは、猛烈な挫折を感じて生きてきたのは想像に難くありません。明るく見える人も相当な葛藤があったはずです。そのような経験をしてきた人はとっても魅力的だと思いませんか?
でも、現在の社会は、子供の時から点数で図られている。点数が高いことが価値があり、低いことが価値がない。そんな社会で育ってきている。
だから、高齢者(多分テストをしても点数が低い)や障害者(多分テストをしても点数が低いことが多い)を尊敬する相手とは見なさない。社会に不必要なな人と見てしまう。心優しい子でも「可哀想な人」との見方しかできなくなるのではないでしょうか。
「社会的地位のある立派な高齢者は尊敬できるが、さえない自分の両親や祖母祖父は尊敬できない」そういう人が増えているような気がします。そんな社会が住みよい社会でしょうか?
障害者支援のプロジェクトは、障害者を支援するだけではなく、「挫折や失敗する人(=殆どの人)」に住みよい社会を作るプロジェクトであると思うのです。つまり、障害者支援プロジェクトは万人の為のプロジェクトということです。

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バンコクの街中で屋台をひくおばちゃんが沢山います。
あの屋台、結構重いのを知っていますか? (おばちゃんに頼んで引かせてもらったことがあります。経験者は語る。)
→道路の段差がなければどれだけ楽か?
バンコク近郊では今でも自転車の人力車(サムロ)があります。あれって、客が乗っていなくてもとっても重いのです。ましてや客を乗せて」自転車をこぐのはとってもしんどいのです。 (おちゃんに頼んで、おちゃんを後部座席に乗せて自転車をこいだことがあります。経験者は語る)
→道路の段差があるのは結構致命的です。
引っ越しのときに、重い荷物を持って運ぶときに階段で上り降りするのは結構きついです。 (女房に命令されて、、、経験者は語る)
→エレベータやスロープアがあれば台車を使えます。
子供のベビーカーで駅の階段を上り下りするときに、片手に子供、片手にベビーカー、背中に荷物状態でとっても大変です。 (女房に命令されて、、、経験者は語る)
→エレベータやスロープアがあればとっても楽です。
海外で住んでいると娯楽が少なく、映画が数少ない娯楽です。
(バンコクで何を甘えているんだ!という声は無視して、、)
でも、映画はほとんどが、英語かタイ語! 両方ともサバイバルレベルの自分にとってとっても厳しい。
→DVDでは視覚障害者の為にキャプションを表示可能です。。。。目と耳両方で追うことにより意味をなんとかつかむことができます。
障害者の為の設備や機能が、屋台のおばちゃん、自転車人力車のおっちゃん、荷物運びのにいちゃん、言葉の不自由な自分??などなどどちらかといえば社会的に弱者の人たちに大きなメリットがあるのです。
障害者に対応された社会というのは、弱者に対応された社会といえるのです。つまり、障害者支援は、社会的弱者の為といえるのです。

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人間は「誰もが人生の中で最低2回は障害者になる」と言われる。
確かに赤ん坊は自分で判断も行動もできない。障害者といえば障害者です。
年をとると、視覚も聴覚も運動能力も判断力にも制限が出てきます。
つまり、人は人生のうえで最低2回は障害者を経験するのです。
それ以外にも病気・事故等でいつ障害を持つかはわかりません。
障害を持たないかといって、それはたまたま障害を持っていないだけのことです。それに、子供を持てば、両親が年老えばある意味家族に障害者を持つことになるわけです、自分自身もいつかは年老うわけです。
明日、事故で障害者になるかもしれません。
障害は人にとってとても身近な問題です。
その意味で、障害者支援を行うということは、すべての人を対象とすることです。

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「障害者支援は誰のため?」を書く前に。「障害者とは何か?」を書かなければならないことに気づきました。
が、あえてここでは触れません。後ほど書いていきたいと思います。

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開発途上国で実施される、「いわゆる」障害者支援プロジェクトの対象者は誰なのであろうか?
「障害者に決まっとるだろ」と言われそうだが、、、、
実は自分はそうは思わない。その理由は2つある。
まず、政府開発援助(ODA)受けしやすい公式な理由。そして、もう一つは自分が信じるもう一つの理由だ。
まず、公式な理由から。
障害者は開発途上国に何人いるかは、正直データがない。その前提として、もちろん障害者の定義自体が曖昧なのだが。
日本で昔は障害者を見かけることがあまりなかった。はじめてアメリカ合衆国に行ったとき街中で多く見かける障害者の多さに驚いたものだ。アメリカに障害者が多いのではなく、障害者が街に出かけているからだと、後で知った。日本も街に出る障害者はずいぶん増えたと思う。
タイでも地方の村に行くと障害者を見かけることが少なくなる。よっぽど意識して障害者を訪ねていかないと障害者に会う機会がない。これは、地方では障害者の社会参加がより遅れていることを意味する。山岳民族の村に行き政府職員に「この村の障害者は?」と問うと「この村には障害者はいません」とのことである。要は、障害者は生きのびていない、あるいは間引きされているそうである。このような事実は政府統計には現れてはきていないのだろうが、事実であろう。
えいやで、「人口の10%が何らかの障害を持つ」と言われる。1所帯5人家族として、2所帯に1所帯は家族に障害者がいるということである。上記のように社会参加できていない障害者をかかえる家庭が、家庭の負担として障害者を抱えているのである。また、(現実は不明であるが)障害を持つ家族が生きのびれない、あるいは間引く、そんな重さを家庭が追っている。さらに家族に障害者がいなかたっとしても、例えば1部落に10所帯があれば、自分の部落に5所帯は障害を持つ家族があるということである。当然地方の村においてコミュニティ(部落)の結びつきは非常に深いものがある。
何が言いたいかといえば、地方の村では、すべての住民は障害者と密接に関係しているということです。

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